プールのコーチです。

あてどなくいろいろ考えるのが好きです。いつか同じような人と気質の人と無限に話せるような環境を作れたらいいなあ。

スキルをどのように割り振るか

ゲーム的に言うと、自分が能力に割り振れるスキルはある程度(生来50/環境50ぐらいで)決まっていて、

そのスキルをどのように割り振るか、というのが人生というゲームだと思っている。

人によっては割り振れるスキルの総量が100ではなく1000の人もいれば、50の人もいるかもしれない。
ここに関しては自分の中で答えが出せていないのだけど、人によって違うということだけは確かだと思う。

さて、このスキルをどう割り振るかという話だけど、基本人格(コミュ力ともいう)と自分の好きなこと(価値観)に半々ぐらいで

降るのがいいのではないかと、個人的には思っている。(コミュ力が自分の好きなことの場合はコミュ力100もありうる)

というのは、基本コミュ力というのは他人ありき(自分の外)に関心をむけることで、自分の好きなことというのは自分ありき(自分の内)に関心を向けることだからだ。


自分の外側に100、スキルを割り振ると、どうなるのか?
基本的に他人の扱いはうまくなる。が、自分で何をしたいか、自分の感情や価値観には目を目を向けていないため、
他の人の力を借りる、他の人の力になる、といった両方の場合でおそらく、失敗する。
コミュ力が高いということは他人を主体にはできるが、他人がこちらに関心を向けてきたときに、どうしようもないのだ。

さて次に、自分の内側に100、スキルを割り振るとどうなるのか?
自分の好きなこと、自分の価値観、また自分の”軸”といったものはできてくる。
この場合、自分のしたいことや自分の価値観を突き詰めていけばいくほど、おそらく真理的なものに目を向けざるを得なくなってくるはずだ。
自分のやりたいことをやるためにお金が必要が必要だ、もしくは他人の力が必要だ、など。
基本的に人間は社会的動物である以上、人間関係の問題からは抜け出すことはできないので、自分がはっきりしてくればしてくるほど、
他人のことをわかったり、他人の立場になって考えたりすることの必要性を痛いほど感じることになるのではないかと思う。


以上のことから、スキルを割り振るとしたら、コミュ力(人格的なもの)と自分の価値観(ワクワクすること、もの)に半々でスキルを割り振っていくことが、
いちばん豊かにこの人間社会を生きていくために必要なのではないかと思っている。

個人的には今の世の中を見渡すと、コミュ力の方にスキルを割り振る重要性はどうやら浸透しているようだが、
自分の価値観を見つめる世の中にはなっていないような気がする。まぁ日本は工業化社会で成長してきた国で、クオリティを均一化する兵隊を作るために
教育制度その他を作ってきたのであるから、ある程度当たり前の気もするが。

ということで、近々の課題でいえば、あるていどコミュ力的なものはつけつつも、”他人の”価値観ではなく、”自分の”価値観を見出すことにスキルを割り振ることが、
目下の課題なのではないか。というところで文を締めくくろうと思う。


PS.ちなみに僕自身は、コミュ力(人格)の部分をおいてけぼりにスキルを振ってきたので、これからはこちらに力を入れていければなぁと思っています。